2016年11月13日日曜日

画像が闇に葬られることについて

 コンピュータが仮構する情報空間に引き寄せられていったのは、都市環境に育った自分にとって自然な成り行きだった。ネットワーク空間は確かに家と学校の往復運動から解き放たれる開放感があり、私は日夜さしたる目的もなく様々なデータの交換に興じ ていた。

 今ここにあるハードディスクに記憶されていない情報が、ディスプレイ上のカーソルを滑らせ、あれやこれやとクリックすれば複製され、ネットワークを遮断しても再生するこ とができる――「ダウンロード」という当時でさえ当たり前のように行われていた行為に、私は極めて素朴な感動を覚え、惜しげもなく情熱を捧げた。ソーシャルネットワークサービス(以降SNS)が登場しネットワーク上のデータの流通速度は飛躍的な高まりを見せ、私はディスプレイの奥へ、奥へと誘 われてゆく。そこで情報の断片に戯れ、溌剌とかき集める中、超現代的なある特殊な画像風景の広がっていることに喫驚し、「画像」そのものを素材にしてディスプレイ上にその風景の描写しようと試 みる。

 以上は私がコンピュータの前で過ごした少なくない時間を総括するものである。そしてその私は今はもう懐念の中である。

  2011年3月11日、私は大学図書館の取手分室で友人と読書をしていた。窓から眺めるうららかな春の空が心地よく、仮眠でもしようか、という頃合いだったように思う。微動、それはこれまで経験した地震とは趣の異なる、ヌラヌラとした粘度のある横揺れだった。友人に目配せをしお互いに硬直した失笑を交わす。何か得体の知れないものに出会った時、思わず浮かべるあの笑みである。直後、突き上げる衝撃に、放り出されるがごとく机の下に潜り込んだ。書棚から勢い良く本が飛び出し山を成す様子や、身の丈以上もあるガラス窓がプラスチックの下敷きの様にしなる様子を呆然と見届けるしかなかった。

 車を走らせ自宅に戻ると台所の片隅にあった筈の冷蔵庫が背を向けて玄関を塞いでいる。冷蔵庫の肩越しにはありとあらゆる調味料が床に散布され目も当てられない光景がのぞく。電気もガスも水道も止まっているようだ。とても一日でどうにかなる有様ではなかった。やむかたなしに比較的被害の少ない、隣接する地区の友人宅に身を寄せることになった。幸い友人の住む地区はライフラインが機能しており当面のインフラの心配はしなくて良かった。だが、それでもその日は自分の暮らす地区の様子が無性に気になってくる。

 日もすっかり落ちた頃、何か漠然とした思いに突き動かされるように屋外へと飛び出す。街灯は生きている。足早に自宅のある丘の上を目指す。冷静さを取り戻したつもりではあった。しかし気が急いてしまい仕方がない。ただひたすら前方のみを 見据え、一歩一歩不確かな足を繰り出してゆく。

 線路を跨ぐ陸橋を越えたあたりで見慣れぬものに行き当たった。信号機である。信号機であるはずのものであるが、発光することもなく頑なに沈黙を貫いている。交通規制という唯一の職能を放棄しただ呆然と佇立するそれは全く無目的で大げさなオブジェに成り下がっていた。振り返れば電灯も信号機も煌々と輝いている。どうやらここが昨日までの日常との「界面」らしい。沈黙する信号機の奥に発光体は一つとしてない。それどころかたった10メートル先ですらまともに視認出来ない。この先に何らかの生命の脅威が待ち受けていたとしてもきっと私は回避することが出来ないだろう。先へ進もうという意志と、それに抗するように重くなった足との相克は暫くの間決せず、ただ立ち尽くす。この先がどこに繋がってしまうのか全く定かでない。踵を返し街灯りを望む。見慣れた街がそこにある――安堵。しかしまた振り返れば、あの何もかもを塗りつぶしてしまう闇が厳然としてそこに在る。改めて峻烈な戦慄が身体中を駆け巡った。恐ろしく、悲しく、どうしようもない現実であった。光が失われればあらゆる物が闇に沈んでしまう。 そしてこの闇からは、きっと何物も生み出されることが、ない......

星々の煌めきも、月光も届かなかったあの夜、私は人間が夜を照らしてきた灯火の、途方もなく長大な連続を思わないではいられなかった。灯りを消した部屋で布団に潜り込み、スマートフォンに指を滑らせ誰かにメッセージを送る。そんな日常の何気ない一コマを支えているのは文明の灯火なのであ る。ディスプレイの背後から私達を照射する「光」。その「光」が今は何よりも尊い。

 しかしその尊さを知ると同時に、それが簡単に失われることもまた知ってしまった。かつて耽溺していた情報空間に再び深く潜り、無邪気に画像と戯れることはもう出来ない。あの特別な画像風景は、たった一度の失電によって叩き潰され、バラバラに引きちぎられ、闇の彼方へ撒き散らされていってしまったのだ。

 ここ数年は飽きもせず往復三時間かけて浜に赴いては漂着物を拾い集めている。私はそれを「ダウンロード」と言い張ることにしているが、その実は在りし日の自分を空拳で再演してみせる観客不在の悲喜劇とも言える。または、私の中で滅びの時間に抱かれた画像景の復興とも言えるのかもしれない。しかし同時に、現在進行系で生成されつつある画像を予め徹底的に滅ぼして見せるという恐行でもある。私達は等しく、あのあらゆる「画像」の葬られる圧倒的な闇に抱かれ、最果ての画像景を幻視せねばならない。

2014年6月20日金曜日

また浜行ったけどヤシ腐ってた

柳田国男の「海上の道」にヤシ云々の話書いてあった気がする。
有名な話だけどちゃんと読んだことなかったのでAmazonで注文してからまた浜に来た。

ヤシあった。



茨城の海にもヤシあってかなりウケた。
ウケたので持って帰ろうと思ったけど、
都会に生活してると嗅がない匂い発してたので持って帰らなかった。
鼻の粘膜に絡みつくような刺激臭で、腐臭って多分こんな匂いだと思う。
腐臭が車内に漂うと最悪の気分になるので、
鳥、豚、牛や馬っぽい腐った死体落ちてるけどやっぱり拾わない。
歩いてるといきなり動物の死体あってビビるので、蝿にはもっと仕事してもらいたい。

漂着物はちゃんと漂着したやつと、ちゃんと漂着しなかったやつがあって、
後者は臭かったり、内蔵飛び出てたり、マジックで名前書いてあったりする。
内蔵飛び出てたりしないやつは、引っ掴んで波打ち際に投げたりする。
十分に漂流したらまた漂着したら良いと思うし、そしたら拾うと思う。

2013年12月27日金曜日

ゴミ拾いに関して



都会に暮らしているとゴミの日に出されたゴミを勝手に漁ってても罪に問われる。
どうも事業者以外がゴミを勝手に持って帰ると怒られるっぽい。

僕のように集めたりするのが好きな都会の人間は、
金を払って物を集めるか、インターネットで画像をダウンロードしたり、自分のライフログ取ったりするしか無いので退屈だなと思う。
昔は結構な額を費やしてグッズ集めてたけど、大掃除のついでにダンボールに入ったそれらを検分してたらすっかりゴミと化してた。結構な時間と労力と金をかけてゴミを集めてたと思うと、虚無的な気分になって非常に良くない。
集めてたものはまだ金銭的価値も有ると思うし、ヤフオクかなんかで普通に売れると思う。
けど、ダル過ぎて人間のする仕事じゃないと思うので、一工夫して価値を捏造する必要があるなと思う。

そう言えば、この間、九十九里浜に行った。
浜にはわりあい沢山の漂着物が有ったけど、
基本的に海水で運ばれてきたものだからそんなに汚く見えなくて、精悍なゴミだなと思った。
漂着物の取得は無主物先占ってやつで、基本的には早い者勝ちらしい。
ゴミの写真撮ったり、気に入った流木とか骨とか拾ったりして良い憂さ晴らしになった。

漂着物の大体は紛れも無いゴミだし、気が変わったら気兼ねなく捨てれるので凄く良いと思う。
インターネットで重要っぽい記事をEvernoteにクリップしたり、格好いい画像をダウンロードするのも楽しいけど、
基本的には十分にパーソナライズされた情報を漁るだけで同心円上をぐるぐると回ってるだけの気がしてダルい時も有る。
そんな時は絶対に無主物拾いが良い。かなりオススメのホビーです。
自然の力でエイジングされたゴミ飾ると、部屋の情報がグッと引き締まる感じも有って良い。

ただ、インターネットの人が言うには、
"所有者の有無が判然としない場合は、遺失物や漂流物として警察に届けた上で、所有権を取得されるのが良い"
との事。クリエイティブなものを拾う際は注意したほうが良さそう。

あと、長靴が有るととても強気になれるのでワークマンとかに寄って買うと良い。

2013年11月18日月曜日

また画像見てるので

画業見なおしてテキストに起こした。ブログには画像あると楽しいので、画像貼りたくって透過素材用意したけど、黒マットが差し込まれちゃうので画像貼らない。

人間は常に選択と決断をしながら前進してきたのだと思う。僕はその象徴として「画像を編む」っていう言い回しでオブジェとか平面とか作ってる。「画像編む」っていうフレーズは今考えたので明日変わってるかも知れない。誤解を招きそうな言葉を用いればコラージュしてる 。今風に言い換えるならばコラ作ってる。

編み方は大体同じで、画像(素材)を選別、切断、衝突させて編む。その際のショック効果が一過性のものではなく、持続する状態になれば良いと思う。テレビゲームとかコンピュータやると、たまにエラーを起こして妙な感じの画面でフリーズする事がある。グリッチ、で検索すると、そういうの好きな人達のネットワーク活動も知れるから一応グリッチって言っとく。グリッチに似た感覚を自分の編んだ画像、というか作ったものを見て受け取ってくれて、滞留してくれたら良いと思う。

じゃあその画像を編むのに最適な道具は何かって言うと、どう考えてもコンピュータだと思う。スマートフォンの登場で僕達は液晶に表示される像に対する触覚がかなり高くなってると思うので、実際に「触っている感」 も強くなった。画面の中のイメージとは言え、画像の操作には身体感覚みたいのがどうしても忍びこんでくるし、コンピュータで画像編集すると凄く豊かなデバ イス体験得られる。実際凄く豊かなんだけど、なかなか言葉にしずらいのでそれも画像と一緒に編みこむ。その結果、質感とか量感みたいなものがシミュレート されてると良いなと思う。

とにかく画像と言えばコンピュータだし、手でやるよりよっぽどダイレクトに画面作れるし、よっぽど早い。精神活動をロスレスに反映出来るのは凄く良いと思う。

コンピュータで画像作ると結構良いことが有って、それは作った画像を現実に召喚するっていう手間が絶対に必要になってくるって事だと思う。ネットワークが有れば色んな形態に画像を転写出来るし、自分で購入出来そうにない特別な機械でやってくれるし、自分の部屋より大きいものだって作れたりする。凄く良いと思う。業務用の機械ってのは機械の中でもかなり最高のものだと思ってるし、個人が頑張ってやるより絶対に品質が良くなる。品質は事業の命とも言うし、作家の生命線でも有る。現代の優れたアート作品はインターネットを超えた上級ネットワークを使って真剣に品質に取り組んでるので見習った方が良いなと常々思ってる。

僕はとりあえずはコンピュータとインターネット使って、それなりに品質の良い状態で価値を提供出来たら良いと思うし、そういう感じで画像編んでるって事にしたいと思う。

今作ってる画像は12月上旬くらいに多分どっかで展すると思うので、言って良いタイミングになったらまた告知します。

2013年11月10日日曜日

梅沢和木「エクストリームAR画像コア」見た




http://www.diesel.co.jp/art/%E6%A2%85%E6%B2%A2%E5%92%8C%E6%9C%A8/

これ見た。 梅ラボの作品が飾ってある。大体は見たことある作品だったけど、巨大なターポリン印刷物にiPad向けるとAR的なギミックが発動するってのが有って、それが目玉という事になっていると思う。

正直AR的なギミックに関してはまるで期待して無かったんだけど、結論から言うと凄く良かった。まず梅ラボの画像をちゃんと「画像」として視認出来るのが良かったし、それが動いてるのも良かった。画像にボタンが有ってそれを押すと動作するんだけど、それがちゃんとターポリンの方にも印刷されてるのもふざけてて良かった。

一番良かったのは、AR技術使ってるのに全然イリュージョン的でもなんでもなくて、GIF動画っぽかったところ。解像度はちょっと荒い。挙動としては、画像上のボタンを押すと集積した素材がブルブル震えて、下にストンと落っこちるって感じで、その下に新しい画像が見える。DIESELのお姉さんによると5種類あるらしい。5種類だけというのもチープで、ガチャガチャのラインナップみたいで良い。メディアアートの人みたいにランダムとかにしないのが良い。現れた画像も別に政治的なメッセージとかなさそうな感じで、意味不明で良い。大体、5種類に画像限定するのが既にガチャガチャっぽいのに、映像体験としてはソーシャルゲームのガチャっぽいのがズルい。多分史上初のガチャっぽいアート作品だと思う。やっぱガチャっぽいのが一番良い点だと思う。

DIESELのサイト見ると真面目にインタビュー答えてるけど、一歩道踏み外してたら完全に救えない人間だったというのがドローイングみると分かる。ドローイング3冊くらいあって、2007年の頃のとか公開してる。全然良くないのとかも有るけど、たまにヤバいの有る。髪の毛貼り付けたドローイングとか結構ヤバくて、問いただしたいと思った。最近のは流石に充分なコントロールが画面に行き届いてて上手さ感じるけど、5年くらい前は相当精神こじらせてたんじゃないかと思う。よく考えると全然良くないドローイング人に見せるのもヤバいし、今でもヤバいのかも知れない。

まだしばらく展覧してると思うので原宿、渋谷あたり徘徊する人は見ると良いです。ついでに表参道のルイヴィトン7階でやってるリッチな展示も、リッチな印刷物ただでもらえるので行くと良い。

2013年10月26日土曜日